2009年8月30日日曜日

梨ノ木神社 (琴平町 榎井)

梨ノ木神社は、こんぴら丸亀街道沿いにある神社で、ものすごく小さいです。拝殿の後ろに、本殿はなく、拝殿と本殿が一体のようです。


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梨ノ木神社の手前には、川があり、小さな橋が架かっています。

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鳥居は、嘉永三年(1850年)に建てられてもの。

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梨ノ木神社の拝殿

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梨ノ木神社の境内の様子。奥のレンガ色の建物は、おおにし病院。

こんぴら丸亀街道 (琴平町 苗田 付近)

今日は、琴平町 苗田の香川用水が下を通っている道の交差点からスタートし、琴平の高燈籠へ向かいます。


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香川用水が下を通っている道を横断してすぐ、右に曲がります。


右折してすぐの風景です。


しばらくすると、右の川に丁石があります。


百三十一の丁石です。


丁石の横には、「藤の棚 跡」の碑があります。

道なりに進み、若宮神社を通り過ぎます。


若宮神社を通り過ぎてすぐ、カーブミラーのある角を右に曲がります。


道なりに進みます。


横瀬の鳥居が見えてきました。




額束に、金の文字があります。


鳥居は、明治四年(1871年)に建てられたもの。


横瀬の鳥居の手前には、百三十五丁石(新)があります。

石井八幡宮 (琴平町 苗田)

石井八幡宮は、県道319号(伊予街道)と、県道206号線の交差点にあります。県道からは、うっそうとした森の部分しか見えません。石井八幡宮の東には、若宮神社があり、お互いに向かい合っています。


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石井八幡宮の東には、若宮神社があります。正面に見えるのは、若宮神社です。この道の一本南側の道が、こんぴら丸亀街道となっています。


石井八幡宮の鳥居


石井八幡宮の鳥居


石井八幡宮の南側の燈籠。文政八年(1825年)に建てられる。


石井八幡宮の北側の燈籠。文政八年(1825年)に建てられる。





この地点の南側(右)に、下の写真の稲生大明神があります。


稲生大明神


石井八幡宮の拝殿


石井八幡宮の拝殿


石井八幡宮の境内の様子


石井八幡宮の本殿


石井八幡宮の境内の様子


石井八幡宮の北側の道


県道206号線をはさんで、「おみたらひ」があります。


どうやら、石井八幡宮に関係するものを洗っていたらしい。


往昔より石井八幡宮年中祭儀の神饌、祭器具を洗ひ清めた浄水の湧きし所と言ひ伝ふ。

若宮神社 (琴平町 苗田)

石井八幡宮の東にある神社です。比較的新しそうです。


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石井八幡宮の鳥居から見た若宮神社

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若宮神社の拝殿

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若宮神社の本殿

2009年8月29日土曜日

丸亀城外堀跡 (丸亀市 中府町)

丸亀市立城乾小学校の東側に、丸亀城外堀跡が2箇所あります。


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一箇所は、県道21号線沿いにあります。

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説明)
外堀の支流が京極家の菩提所 玄要寺の境内であったこの辺りを南北に流れていた。



二箇所目は、北向地蔵の横にあります。

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北向地蔵。

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石碑の右側に説明が彫られていて、非常に読みにくいです。
説明)
上南条町の外堀から土橋をくぐって旧農人町の北向地蔵まで外堀の水が流れて来て右折して北へ向き西汐入川へ流れ入っていた。

井上通女の墓 (丸亀市 南条町)

丸亀城から、車に戻る途中、丸亀市立城西小学校の前を通りかかったとき、像が目に入り、近づいて、誰の像かと見てみると、井上通女でした。先週、見つけられなかったお墓を探してくれと、井上通女の思し召しです。また、法音寺へ行ってきました。駐車場とは、逆方向なんだよなぁ。


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井上通女の像
丸亀市立城西小学校の校門のそばにある井上通女の像

井上通女の像
たぶん、本人とは似てないんでしょうが。


像のそばにある井上通女の説明

上の説明を写す。

井上通女は、万治三年(1660)六月十一日、丸亀藩士 井上本固の長女として城下西郭に生まれた。天資聡明、幼より父に学を受け、十六・七歳すでに「処女賦」「深閨記」を書いて女性の理想像を追求した。時の藩 主 京極高豊の母 養性院は是を江戸邸に召す。「東海紀行」はその海道下りの名文であり、江戸奉公の日々は「江戸日記」に詳しい。元禄二年(1689)養性院 逝くや、直ちに懐かしい父母の許に帰り、同藩の三田宗寿に嫁した。帰郷の名作「帰家日記」は、和歌・漢詩を交えた一代の名作である。元禄七年四月 夫 宗寿 没後は、独力よく家庭を治め、晩年は、学問と風流の日々を送り生涯の苦学を「和歌往事集」に纒めた。元文三年(1738)六月二十三日往く。歳七十九。

コチラに、さらに詳細な説明があります。30歳で結婚されたそうで、当時としては、相当の晩婚ですね。


井上通女とは何の関係もありませんが、丸亀市立城西小学校内にある像。なんだかシュールです。


井上通女のお墓は、南条町の法音寺にあります。


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井上通女の墓
本堂の裏(西)の墓地の中に、井上通女の墓があります。

井上通女の墓
井上通女の墓

井上通女の墓
下の文字が彫られているように見えます。
 浄翁宗壽居士之墓
 井上氏●通女之●封





2009年7月30日に法音寺の本堂の屋根の一部が崩れ、えらいことが起こっています。


井上通女の墓の前くらいから見た法音寺。


屋根の崩れた本堂


本堂の裏側から支えています。


屋根の崩れた箇所。


本堂全体が傾いています。