2010年12月26日日曜日

道池周辺 (丸亀市 川西町北)

一つ前の「香川県の山」の表紙を、讃岐富士と飾っていた池です。この池からだと、讃岐富士が、本当にきれいな形で見えます。池は、県道18号(善通寺府中線)と、県道46号(長尾丸亀線)の交差点にあります。




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この時期、池の水がなくなっています

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道池の堤防の上を、犬と散歩する人


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この写真は、土器川の河川敷で撮影

2010年12月25日土曜日

天霧山の東側 (善通寺市 吉原町)

昔は、城があって、現在は、採石場となっている天霧山です。採石場付近がどうなっているのかと思い、行ってみました。

下の写真ぐらいまで車で行ってみました。思っていたより、ダンプカーの出入りが激しく、5分に1台ぐらい通っています。一般の車で、これ以上、上るのも違法になるような気がしてきたので、ここで、引き上げました。

採石場のそばから撮った写真が、下の4枚です。

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ダンプカーがひっきりなしに通ります。道は狭いです。

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左端に讃岐富士が写っています。

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写真、右端に筆ノ山が写っています。


採石場をあとにして、天霧山の東側を散策しました。

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万福寺

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万福寺の境内の様子

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万福寺の境内の様子

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万福寺の本堂

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万福寺

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万福寺のすぐ横に、東西神社があります。

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東西神社の境内の中に、天霧城跡の案内板がありました。ここから、天霧城に行けるんでしょうかね。

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東西神社の前の川

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東西神社の前

東西神社の上に行く道があり、上ってみることにしました。上には、畑と携帯のアンテナしかなさそうです。

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東を眺める

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北、瀬戸内海方向を眺める

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山から下りて、東西神社の前の道を進むと、下の石碑がありました。

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七人同志 甚右衛門の碑

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七人同志 甚右衛門の碑。大正14年11月建立。

「讃岐の歴史」香川地方史研究会編(講談社)によると、

西讃の百性大一揆=讃岐で起こった最大の百姓一揆である。相つぐ天災と重税に苦しんでいた西讃地方の百姓たちは、丸亀藩に対し、13か条からなる歎願書を記して提出したが聞き届けられなかった。そこで三野郡笠田村の大西権兵衛、弥市郎、嘉兵衛、大野村の兵治郎、那珂郡帆ノ山村の小山金右衛門、多度郡三井村の金右衛門、碑殿村の甚右衛門ら7人が中心に密議を行い、三野・豊田郡の農民らを集めて、寛延三年(1750)正月20日に一揆を起こした。
正月14日にすでに三野郡などに廻文がでまわり決起をうながしている。22日には、一揆を起こした三野郡、豊田郡内の農民と那珂郡、多度郡内の農民らが鳥坂峠で合流した。その人数約6万5千余人といわれる。農民らは鳥坂峠を下り善通寺へと向かった。丸亀藩は大いに驚き、三田茂左衛門らの家臣を向かわせ、23日に善通寺市誕生院で百姓代表と逢って、13か条の歎願書を受け取るとともに、一揆を鎮めるために話し合いに応じた。その結果、百姓からの歎願のうち10か条については即座に聞き入れることにして、各郡1通宛の書付を渡した。百姓たちは大喜びで帰村した。
ところが、寛延三年正月、幕府が農民の強訴を禁じたことによって、丸亀藩も一揆に対する対策をきびしくし、前に下付した和解の書面を取り上げて、百姓一揆を起こした首謀者7人とその家族らを処刑した。7月28日、金倉川の刑場で、大西権兵衛らは強訴・直願・徒党の罪によって、磔・打首獄門にされた。世に七義人童士、7義士として崇められて神社に祀られている。

讃岐の風土記 by 出来屋にも、記事があります。

家族まで殺されて、昔って、理不尽だよなぁと思ってしまいます。

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七人同志 甚右衛門の碑の横から、東西神社方向を眺める。

2010年12月23日木曜日

麻城跡 (三豊市 高瀬町)

拍子抜けするほど小さな城です。敵が攻めてきた時に使う城だとしても、当時の日本人はどれだけ小さかったんだと思ってしまいます。周りには、山がいっぱいあるのに、なぜ、ここに城を構えたんでしょうかね。


より大きな地図で 香川県の遺跡 を表示

香川県道23号(詫間琴平線)を走っていると、産直市場みたいなところのそばに、麻城跡の案内板が出ています。案内に従って、横道に入っていきます。それほど、狭くはないので、心配無用です。最初は、傾斜がきついかも。

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横道に入って、竹林を抜けると、下の写真の場所に出ます。

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ここに、駐車スペースがあります。ここからは、徒歩となります。麻城跡まで、10分ほど歩きます。

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しばらく行くと、竹林になります。

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途中、2箇所ほど、分かれ道がありますが、案内板にしたがって行きましょう。

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分岐点1

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分岐点2

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麻城跡の少し手前に、大きな穴があります。ここまで来たら、あと少しです。

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麻城跡に着きました

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麻城跡鳥瞰図

上の説明を写す

麻城跡は戦国時代、麻の領主・近藤出羽守国久の詰めの城である。馬の背状の城山の最高所(168m)を天守(城のてんしん)とし、東に段下りに6つのとりで(六郭)をはしご状に配し、その前後に外郭・出郭を持ち、敵に攻められたときこの城で守る。
国久は獅子ヶ鼻城主大平伊賀守国祐(豊浜町和田)の弟で、ともに天霧城主香川氏に属していた。
天正年間、土佐の長宗我部元親西讃岐に侵攻の時、麻城も落城、国久も討死にした。その谷をおじか谷(横死ヶ谷)と呼んでいる。時は天正6年(1578年推定)。

案内板から、本丸跡に向かいます。

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まず、外郭(1)跡

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外郭(1)跡から、本丸跡方向を眺める。なぜか、農業用モノレールがあります。

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本丸跡の方から、外郭(1)跡を振り返る。

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空堀(馬切)

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ねらい岩(大門石)

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第二郭跡

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本丸跡から、第二郭跡を眺める。

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本丸跡

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本丸跡にある石碑

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本丸跡から、西を眺める。朝日山森林公園のお城が見えます。

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本丸跡から、北を眺める。大麻山が見えます。

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本丸跡から、南を眺める。

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本丸跡から、東を眺める。

以下は、麻城跡のそばの竹林で撮った写真。手入れの行き届いた竹林は、見ていて気持ちいい。

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ここらへんは、手入れがされていないみたい