史跡「弓張月」、銭形の砂絵、琴弾八幡宮は、位置的に近いので一気に紹介です。「弓張月」とは、源為朝を主人公とする伝奇物語の題名で、その妻が、この地で、夫の仇討ちをしています。
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銭形の砂絵を上から見るために、琴弾山展望台に上りました。琴弾山展望台に行くためには、道の駅「ことひき」のほうから、上っていきます。道は狭く、くねくねしていますが、一方通行なので、対向車を気にする必要はありません。
上ると、まず、第二駐車場があります。さらに進み、少し下ったところに、第一駐車場があります。
休みの日には、たこ焼き屋が店を構えています。
今日の砂絵。風が強く、波が高いです。
第二駐車場で、来た道を振り返ると、どこかへ通じる石段があります。
石段です。
石段の近くに、史跡「弓張月」の碑が建っています
「弓張月」のいわれ
上の説明を写す。
江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で夫の仇討ちしたという話があります。
為朝が京の戦いで敗れたとき、鎮西太宰府の館(やかた)を守っていた白縫は召使い八人とともに讃岐観音寺市、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。
一方京では、敗れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕らえた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は捕われて八丈島に流されました。
主君を敵方に売った武藤太は”痴(し)れ者”として避難され居たたまらなくなって手下二人と西国に落ちました。
流れついたのが讃岐の国室本の港(観音寺市室本町)でした。港にあがった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮に近いのを知って参拝しました。祈る言葉は悪人らしく、為朝密告の恩賞の少なかったうらみごとだったのです。白縫は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇と知ったのです。「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と美女の琴で武藤太を誘い出し、見事夫の仇を討ったのです。
いまも観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇討ちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません。
源為朝をWikipediaで調べてみると、弓矢の使い手で、かなりの強者だったらしい。さらに、切腹による自殺の、史上最初の例とされているそうです。
石段を登ると、そこは神社です。
琴弾八幡宮です。
先程の入り口の反対の財田川の方からも、登ることができます。石段は長そうです。
境内からは、観音寺市街を一望できます。
江浦草山(つくもやま)も見えます。中央のかけた山が江浦草山です。
琴弾八幡宮の境内の様子
琴弾八幡宮の境内の様子
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