2年前の同じ時期に、同じ艦が、サンポートにやってきています。その時の様子は、コチラをご覧ください。
サンポートにやってきていたのは、掃海母艦「ぶんご」 、掃海艦「はちじょう」、掃海艇「つきしま」。
なぜ、この艦たちが来るのかと不思議に思っていたのですが、どうやら、毎年5月、金刀比羅宮で行われる掃海殉職者追悼式に関係しているようです。
私は、12時ちょっと過ぎに、現地に到着したのですが、甲板の上に見学者がいないなぁと思ったら、13時まで昼休みでした。
サンポートのバラ園を手前に。
民間の船が近づいていきました。アメリカ海軍に同じ事をしたら、機関銃で撃たれるでしょう。
このタグボートが気になってしょうがない。
13時になり、艦内の公開が始まりました。並んでいる人が多かったので、帰ろうかと思ったのですが、どんどん人が艦に吸い込まれていくのを見て、並びました。15分ほど待って、艦の上に上がれました。
艦に乗り込む前に、手荷物検査。
艦の上から、下を見る。人が並んでいます。
62口径76mm単装速射砲
62口径76mm単装速射砲の弾。金色の部分が薬莢で、白い部分が飛んでいく。
もしものために、下で、ウェットスーツを着て、待機してくれています。
タグボート
艦橋へ上がるのに、30分以上待たないといけないと聞き、艦を降りることにしました。自衛隊の艦は、本当に清潔で、手入れが行き届いています。2年前と何も変わってないような気がしました。(そろそろ、掃海母艦でなく、護衛艦に乗ってみたい気もしますが。)
甲板の上には、人がいっぱい。
以下、掃海艦
はちじょう
はちじょう
JM-61-M20mm多銃身機銃が見えます。
2012年5月27日日曜日
2012年5月26日土曜日
瓶ヶ森林道 (高知県 いの町)
霧の森 (愛媛県 四国中央市 新宮町馬立)
高速道路を使わず、こんなところに、誰が来るんだ。私です。
125ccのバイクだったので、下道を使わざるをえなかったのですが、このあたり、霧の森以外、何もないです。
江戸時代には、川之江と高知を結ぶ土佐街道の途中にあり、土佐藩の参勤交代の際は、ここに本陣を敷いたらしい。
愛媛県道・高知県道5号(川之江大豊線)沿いにある 道の駅 霧の森の駐車場。
県道5号の対向にある橋を渡って、対岸に行きます
橋の上から、下を見る。沈下橋みたいなものが見えます。
橋を渡り終え、左には、「霧の森交湯~館」があります。
橋を渡り終え、右には、長いスロープがあります。
橋を渡り終え、正面には、ステージがあります。
渡ってきた橋
ステージ前のひろばは、工事中でした。
広場の奥にあった新宮街道観音。お銚子を逆さにしています。
広場のそばに馬立本陣があります。
馬立本陣の説明
上の説明を写す
馬立本陣
土佐藩が六代藩主山内豊隆候の享保三年(1718年)から十六代藩主山内豊範候の分久二年(1862年)までの間に渡り、参勤交代の際に本陣としていた屋敷跡。
建物は明治30年の火災で消失してしまったが、約1000平方メートルにも及ぶ敷地は石垣の上に高さ1.8mのじゅうがんを備えた土塀で囲まれており、内側は御殿、藩士宿所等のほか、駕籠が50丁並ぶほどの広大な庭があったと言われている。
正門は明治初期に金川村(市内金田町)の円徳寺に移築されていたものが、昭和58年に返戻され元の場所に復元されたものであり、石垣と並び当時の面影を残している。
なお、正門までの登りは現在石段であるが、当時は勾配がもっとゆるく、たたきであった。
四国中央市教育委員会
正門、これだけが当時のものらしい。
正門の内側。窓がガラスだと思ったら、民家でした。
馬立本陣を背に、現代の建物に向かいます。
霧の森茶フェ
階段を登ると、池がありました。
池の鯉
茶フェ ゆるり
池
池のつきあたり
池
霧の森茶フェの上の様子
霧の森茶フェの上からの眺め。後ろに高速道路が見えます。
街道茶店~聴水庵~
街道茶店~聴水庵~
街道茶店から、川に降りる途中、建物の下に大きなタンクを見つけました。
大きなタンク
川
川のさらに先
霧の森レストラン
霧の森ふれあい館
125ccのバイクだったので、下道を使わざるをえなかったのですが、このあたり、霧の森以外、何もないです。
江戸時代には、川之江と高知を結ぶ土佐街道の途中にあり、土佐藩の参勤交代の際は、ここに本陣を敷いたらしい。
愛媛県道・高知県道5号(川之江大豊線)沿いにある 道の駅 霧の森の駐車場。
県道5号の対向にある橋を渡って、対岸に行きます
橋の上から、下を見る。沈下橋みたいなものが見えます。
橋を渡り終え、左には、「霧の森交湯~館」があります。
橋を渡り終え、右には、長いスロープがあります。
橋を渡り終え、正面には、ステージがあります。
渡ってきた橋
ステージ前のひろばは、工事中でした。
広場の奥にあった新宮街道観音。お銚子を逆さにしています。
広場のそばに馬立本陣があります。
馬立本陣の説明
上の説明を写す
馬立本陣
土佐藩が六代藩主山内豊隆候の享保三年(1718年)から十六代藩主山内豊範候の分久二年(1862年)までの間に渡り、参勤交代の際に本陣としていた屋敷跡。
建物は明治30年の火災で消失してしまったが、約1000平方メートルにも及ぶ敷地は石垣の上に高さ1.8mのじゅうがんを備えた土塀で囲まれており、内側は御殿、藩士宿所等のほか、駕籠が50丁並ぶほどの広大な庭があったと言われている。
正門は明治初期に金川村(市内金田町)の円徳寺に移築されていたものが、昭和58年に返戻され元の場所に復元されたものであり、石垣と並び当時の面影を残している。
なお、正門までの登りは現在石段であるが、当時は勾配がもっとゆるく、たたきであった。
四国中央市教育委員会
正門、これだけが当時のものらしい。
正門の内側。窓がガラスだと思ったら、民家でした。
馬立本陣を背に、現代の建物に向かいます。
霧の森茶フェ
階段を登ると、池がありました。
池の鯉
茶フェ ゆるり
池
池のつきあたり
池
霧の森茶フェの上の様子
霧の森茶フェの上からの眺め。後ろに高速道路が見えます。
街道茶店~聴水庵~
街道茶店~聴水庵~
街道茶店から、川に降りる途中、建物の下に大きなタンクを見つけました。
大きなタンク
川
川のさらに先
霧の森レストラン
霧の森ふれあい館
登録:
投稿 (Atom)