下の写真ぐらいまで車で行ってみました。思っていたより、ダンプカーの出入りが激しく、5分に1台ぐらい通っています。一般の車で、これ以上、上るのも違法になるような気がしてきたので、ここで、引き上げました。
採石場のそばから撮った写真が、下の4枚です。
ダンプカーがひっきりなしに通ります。道は狭いです。
左端に讃岐富士が写っています。
写真、右端に筆ノ山が写っています。
採石場をあとにして、天霧山の東側を散策しました。
万福寺
万福寺の境内の様子
万福寺の境内の様子
万福寺の本堂
万福寺
万福寺のすぐ横に、東西神社があります。
東西神社の境内の中に、天霧城跡の案内板がありました。ここから、天霧城に行けるんでしょうかね。
東西神社の前の川
東西神社の前
東西神社の上に行く道があり、上ってみることにしました。上には、畑と携帯のアンテナしかなさそうです。
東を眺める
北、瀬戸内海方向を眺める
山から下りて、東西神社の前の道を進むと、下の石碑がありました。
七人同志 甚右衛門の碑
七人同志 甚右衛門の碑。大正14年11月建立。
「讃岐の歴史」香川地方史研究会編(講談社)によると、
西讃の百性大一揆=讃岐で起こった最大の百姓一揆である。相つぐ天災と重税に苦しんでいた西讃地方の百姓たちは、丸亀藩に対し、13か条からなる歎願書を記して提出したが聞き届けられなかった。そこで三野郡笠田村の大西権兵衛、弥市郎、嘉兵衛、大野村の兵治郎、那珂郡帆ノ山村の小山金右衛門、多度郡三井村の金右衛門、碑殿村の甚右衛門ら7人が中心に密議を行い、三野・豊田郡の農民らを集めて、寛延三年(1750)正月20日に一揆を起こした。
正月14日にすでに三野郡などに廻文がでまわり決起をうながしている。22日には、一揆を起こした三野郡、豊田郡内の農民と那珂郡、多度郡内の農民らが鳥坂峠で合流した。その人数約6万5千余人といわれる。農民らは鳥坂峠を下り善通寺へと向かった。丸亀藩は大いに驚き、三田茂左衛門らの家臣を向かわせ、23日に善通寺市誕生院で百姓代表と逢って、13か条の歎願書を受け取るとともに、一揆を鎮めるために話し合いに応じた。その結果、百姓からの歎願のうち10か条については即座に聞き入れることにして、各郡1通宛の書付を渡した。百姓たちは大喜びで帰村した。
ところが、寛延三年正月、幕府が農民の強訴を禁じたことによって、丸亀藩も一揆に対する対策をきびしくし、前に下付した和解の書面を取り上げて、百姓一揆を起こした首謀者7人とその家族らを処刑した。7月28日、金倉川の刑場で、大西権兵衛らは強訴・直願・徒党の罪によって、磔・打首獄門にされた。世に七義人童士、7義士として崇められて神社に祀られている。
讃岐の風土記 by 出来屋にも、記事があります。
家族まで殺されて、昔って、理不尽だよなぁと思ってしまいます。
七人同志 甚右衛門の碑の横から、東西神社方向を眺める。
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