財田町にある戸川ダムを探している途中に見つけた滝です。この滝は、戸川ダムの上流に位置します。
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ダムがないかなぁと、渓道橋にバイクを止める
橋の上から下を見てみると、やたら人の手が入った川底が見えます。川底ではなく、遊歩道のようです。
橋の入口に「鮎返りの滝」の看板がありました。川に下りようと回りを見渡しましたが、見当たらなかったので、看板のところから強行突破することにしました。川まで、とても急な坂です。
下りてみると滝が見えました。
動画
滝の周りの様子
滝の周りの様子。工事をするらしく、杭があちこちに立っています。
滝
川から渓道橋を見上げる
滝のそばに石碑があります。
鮎返りの滝と三島毅の説明
上の説明を写す。
昭和32年(1957)に戸川ダムが完成したが、それ以前春の若鮎が財田川の上流をめざしてのぼってくるとき、この滝のためにこれ以上進むことができなかったと伝えられている。そして、滝壺近くは、貝の化石がよく発見されたところでもある。
川床が高くなったため、往年の雄大さをしのぶことができなくなったが、「讃州府志」には
鮎返りの滝 財田村にあり暴流豪雄大にして四時詠観に佳なり
往古空海本山寺を創建するに当り材を此山林に採り時々斧を瀑下の
岩片に琢磨す因て附近の地を砥川と称す即ち四国新道の要所に
して旅館三四あり陣馬の往来常に絶へす又詩人墨客の曳杖するも
の尠からずと云う。
と記されている。
明治26年(1893)8月、大久保諶之丞記念碑の文案作りのため漢学者三島中洲先生が当地にこられ、この滝をみ、感動して詠まれたのが次の詩です。
鮎返瀑布
白水千尋懸碧穹
涼風満地暑威空
香魚知返人忘返
立盡轟雷飛雨中
これが碑文となっており、春の新緑、夏の蝉時雨、秋の紅葉、
冬の薄氷など四季折々の景観が、訪れる人々の目を楽しませてくれます。
平成12年3月 財田町教育委員会
石碑
橋の上から捨てられたゴミ (まんのう町四條にお住まいの橋村さんが捨てたゴミらしい)
滝から川を下ると上へ行く道がありました
カーブミラーの横から出てきました。左に下って行くと、道の駅「たからだの里さいた」に行きます。右に登って行くと老人ホームがあります。
道を登って行くとそば屋みたいなのがあります。一人では入りにくそう。
老人ホーム「諶之丞の丘」
老人ホームの駐車場の一角に、石碑を見つけました。
忠誠塾
尽誠学園発祥之地
上の説明を写す。
四国山脈の緑深く、中を流れる水清き財田の里、
この好き郷に生を享けた大久保彦三郎(安政6年~明治40年)先生は、この戸川の血に明治15年、私塾、17年「忠誠塾」を開き、陽明学を基本理念として、近隣女子の教育にあたる。
20年、塾を京都に移し、「盡誠舎」として、全国的な人材の育成に務める。
不幸、病に倒れ帰郷するも、小康を得て、満濃町の四条、そして善通寺市の現在地に学舎を移し、あるいは師範部・女子部を設け、その中核としての「盡誠中学校」の充実発展に尽瘁す。
花は開き、今や、学校法人尽誠学園として善通寺市に尽誠学園高等学校・香川看護専門学校、宇多津町に香川短期大学・同附属幼稚園、高松市に香川誠陵中学校・高等学校を擁する総合学園となる。
なお、学校の教育理念(校訓 愛・敬・誠)を実践の場に活かすべく社会福祉法人尽誠福祉会を創設し、善通寺市ののぞみ保育園につづいて、財田町に特別養護老人ホーム「諶之丞の丘」を開設している。
発祥の地に生き、その学舎に学ぶという縁に結ばれた幸せを喜び、併せて母校の淵源を偲ぶようすがにしたいと財田町の同窓生、多くのひとのご理解・ご支援を得て、ここにその記念碑を建つ。
尽誠学園高等学校長
白井加寿志撰
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