丸亀城から、車に戻る途中、丸亀市立城西小学校の前を通りかかったとき、像が目に入り、近づいて、誰の像かと見てみると、井上通女でした。先週、見つけられなかったお墓を探してくれと、井上通女の思し召しです。また、法音寺へ行ってきました。駐車場とは、逆方向なんだよなぁ。
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丸亀市立城西小学校の校門のそばにある井上通女の像
たぶん、本人とは似てないんでしょうが。
像のそばにある井上通女の説明
上の説明を写す。
井上通女は、万治三年(1660)六月十一日、丸亀藩士 井上本固の長女として城下西郭に生まれた。天資聡明、幼より父に学を受け、十六・七歳すでに「処女賦」「深閨記」を書いて女性の理想像を追求した。時の藩 主 京極高豊の母 養性院は是を江戸邸に召す。「東海紀行」はその海道下りの名文であり、江戸奉公の日々は「江戸日記」に詳しい。元禄二年(1689)養性院 逝くや、直ちに懐かしい父母の許に帰り、同藩の三田宗寿に嫁した。帰郷の名作「帰家日記」は、和歌・漢詩を交えた一代の名作である。元禄七年四月 夫 宗寿 没後は、独力よく家庭を治め、晩年は、学問と風流の日々を送り生涯の苦学を「和歌往事集」に纒めた。元文三年(1738)六月二十三日往く。歳七十九。
コチラに、さらに詳細な説明があります。30歳で結婚されたそうで、当時としては、相当の晩婚ですね。
井上通女とは何の関係もありませんが、丸亀市立城西小学校内にある像。なんだかシュールです。
井上通女のお墓は、南条町の法音寺にあります。
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本堂の裏(西)の墓地の中に、井上通女の墓があります。
井上通女の墓
下の文字が彫られているように見えます。
浄翁宗壽居士之墓
井上氏●通女之●封
2009年7月30日に法音寺の本堂の屋根の一部が崩れ、えらいことが起こっています。
井上通女の墓の前くらいから見た法音寺。
屋根の崩れた本堂
本堂の裏側から支えています。
屋根の崩れた箇所。
本堂全体が傾いています。
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