前回見つけられなかった中府の鳥居からスタートです。目指すは、新堀港にある金毘羅講燈籠です。
中府の鳥居。琴平側(南)から鳥居を見る。
中府の鳥居。明治時代に建てられたものらしい。
中府の鳥居。柱の下の部分。
中府の鳥居。明治に建てられたものなので、神額には、金刀比羅とあります。
中府の鳥居。港側(北)から鳥居を見る。
中府の鳥居。港側(北)から鳥居を見る。
鳥居の北側には、百五十丁石があります。
百五十丁石。
百五十丁石。明和四年(1767)に建てられたものらしい。
百五十丁石と、中府の鳥居の位置関係。写真中央右の電柱すぐ横に百五十丁石があります。
こんぴらに関係あるかどうか分かりませんが、燈籠です。
鳥居から、北に進むと、百四十丁石があります。
百四十丁石の周りの様子。
百四十丁石のある交差点。とりあえず、写真中のおばあちゃんの道へ進むことに。
何か祀っています。
でも、普通の家です。
ケアタウン 城下町(老人ホーム)の看板の横に石碑らしきものがあります。漢文で、彫ってある文字も読みにくく、こんぴら街道に関係あるのかどうか分かりません。
北向地蔵
北向地蔵菩薩の横に、丸亀城外堀跡の石碑がありました。
北向地蔵菩薩
北向地蔵
金毘羅講燈籠
金毘羅講燈籠
金毘羅講燈籠
金毘羅講燈籠の説明
金毘羅講燈籠
金毘羅講燈籠の横にある「明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地」の石碑
金毘羅講燈籠のところにある「瀬山登」の像
新堀港
みなと公園から金毘羅講燈籠を見る。
別ルートをたどって、中府の鳥居まで戻ることにしました。
丸亀駅の裏の通りにある燈籠
丸亀駅の裏の通りにある燈籠(上の写真と同じ)
丸亀駅の裏の通りにある燈籠(上の写真と同じ)
南条町道標 (左端の石柱)
寿覚院の道標 (説明板の前の石柱)
金毘羅奉納灯籠 (右端の燈籠)
上の説明を写す
金毘羅奉納灯籠
この石灯籠は、金毘羅大権現への献納灯籠の一つで、元はこんぴら街道の門戸であった福島湛(堪)甫の突堤にあったものである。台石に願主、世話人、施主名のほかに「左金毘羅道」本宮百五十八丁や札所への距離など道標も兼ねた彫り込みがある。寛政八年(1791)に大阪講中によって建てられてが明治四十四年(1911)に寿覚院山門脇に移転され、平成六年(1994)に丸亀市の金毘羅街道景観整備事業によりこの地に再建立された。
南条町道標
金毘羅参詣の人たちの道しるべとして建てられた石柱で、元は十メートルほど南の交差点(元は三叉路)にあり南条町の道標として市民から親しまれていた道標である。北面には「すぐこんぴら」、東面「左金毘羅道」、南面「右かわぐち」と明瞭に彫り込まれており、石工は小野利助とある。この道標は、明治十三年 (1880)に南条町を中心とした地元有志の手で建てられた後、県道丸亀詫間線の新設、拡幅などにより移転を繰り返したが平成六年にこんぴら街道に面するこの地に永久保存することになった。
寿覚院の道標
この道標は、寿覚院境内にあったもので、「南条町寿覚院南一丁」とあることから、元は本町筋の角付近(北方向)に建てられていたものであろう。石柱には、「亀山城築城者羽坂重三郎墓所」、「昔金毘羅大権現本地仏」など寿覚院のことや、レリーフ状の指差しで、道隆寺や道場寺(郷照寺)の方角を示しているほか「こんぴらせんつうじへんろみち」など、現在の道路標識の役目をしていたものである。
燈籠は寛政八年(1791)に建てられたものらしい。
この燈籠は、珍しく「象頭山 御本地仏 十一面観世音菩薩」と彫られています。
南条町道標
南条町道標
南条町道標
「鶏鳴軒の道標」というものらしい。
大正3年、鶏鳴軒という散髪屋が建てたもので、こんぴら道標の中では最も新しい。明治になり、三軒家から善通寺を通って琴平へ行く広い道(大久保道路)が開通したので、阿波へ向かう人のために、ここからまっすぐ行く新しい道を教えたものである。「西ぜんつうじことひら道」「北汽車海岸へんろ道」「南このさきだいせん阿波街道」とある。
鶏鳴軒の道標の周りの様子。
とりあえず、中府の鳥居に戻ってきて、琴平方面に進むことに。
五丁の丁石。こんぴら街道は、ここを左に曲がって、狭い道を行くらしい。
五丁の丁石
五丁の丁石
起点石から0.4kmの位置らしいです。
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